除夜の鐘はなぜ百八つ
すす払いの済んだ茶の間に家族一同が集って、年越しそばを項き、テレビなどを見ながら一服していると、何処からともなく聞えてくる鐘の音、一つ、二つと数えていた子どもも、いつしか母親の膝に眠ってしまいます。毎年繰返されて同じようではありますが、聞く度(たび)に毎年何かの感慨にふけるのが除夜の鐘です。
人間の欲望には限りがありません。このことは今も昔も変らないことなのでしよう。眼にかたちを見、耳に声を聞き、鼻に香をかぎ、舌に味を感じ、皮膚に感触を受け、心にことをおもうたびに、あれが欲しい、これがいやだと嫌ったりして限りがありません。小さな、とるに足らない悩みもあるでしようし、またその人の一生を支配するような大きな心の悩みもありましよう。昨年の除夜の鐘の音にこのような心の悩みを捨てきろうと誓ったのですが、さて今年の除夜となってふり返ってみますと、来る日も来る日も反省の一年であったようです。
お釈迦さまは悟りを開かれるのにこの心の悩みを一つずつ除いてゆかれ、それを十とも、十八とも、八十八とも、いろいろと数えておられますが、経文では総じて百八煩悩と数えるのが、わたくしたちの限りない迷いをあらわすのに最もよく適しているように思われ、数珠の珠も鐘の数も百八として、人間の反省のよすがとしたものです。静かに味わう除夜の鐘に、行く年の心の悩みを洗い、来る年の希望を願いたいものです。
◎まことに諸行は無常にして生滅を性となすものなり。生じたるものはまた滅する。その静まれる安楽なれ(大般涅槃経)