「文珠菩薩」と「普賢菩薩」
日本人は旅行好きです。そしてその旅行の中心に多くの場合、寺院見物、仏教美術観賞が入っています。とくに若い女性は、京部・奈良ときくと目を輝かします。しかしこれらの寺院を訪ねる人の中には、何か祈願したり、自己の信仰のあらわれとして参詣している人も少なくはないと思いますが、大部分の人は外国からの訪問者と同じように、歴史的・文化的興味か、せいぜい仏教美術や美しい庭園の観賞といったところが主目的のようです。
広隆寺や中宮尼寺の弥勒菩薩を観て「いいわァ肩から指先にかけてのシルエット、何ともいえないわァ」「頬からあごにかけてのやわらかさ、あれが女性の永遠の美だ、さすが魅力苦薩だ」ちようどファッションショウを見るのと同じようです。弥勒菩薩とはどんな菩薩なのでしょうか。また、お釈迦きまの両脇に文珠、普賢の菩薩がなぜいるのでしようか。被らは知ろうとしません。
そこで今回は文珠、普賢の両菩薩について考えてみたいと思います。「三人寄れば文珠の智慧」という言葉で親しまれる文珠菩薩ですが、実は文珠という人がいたわけではありません。お釈迦きまの徳を分析してみますと、智慧と慈悲の二つになります。文珠菩薩はその中の智慧を、そして普賢菩薩は慈悲を象徴しているのです。智慧は"光"として表われますから、仏さまの前にローソクを立て、慈悲は花のやさしさであらわしますから、同じく仏前には花が飾られるのです。
だからなにも漠然とお寺の本堂にローソクと花が供えられているのではありません。ちゃんと意味があるのです。皆さんのお宅にある仏壇にもローソクと花とが供えられているのです。ローソクをあげ、花をそなえるのは、なにも先祖や身近な人の死に対する、たむけの飾りということだけでなく、この世に生きるものヘ「慈悲と智慧こそが仏さまの象徴だから、そのことをいつも忘れないようにしましよう」とよびかけている仏さまの心をあらわしているのです。
◎まこと諸行は無常にして生滅を性となすものなり。生じたるものはまた滅する。その静まれるこそ安楽なれ(大涅槃経)